すべてのものは、残らないものに価値があるのだろうか?
公開日:
:
最終更新日:2017/03/03
et cetera
> 身体や大地に描き、やがてそれらは消えてしまう。残らないものにこそ、価値があるのだ
> 石井竜也
(折々のことば 選・鷲田清一)
米米の石井さんですね。
鷲田さんのコメント部に解説があります。
~~~~~~~~~
オーストラリアの先住民、アボリジニーの絵の図録に寄せて。
人は採取し製作したものを貯(た)めようとする。貯めると次に護(まも)ろうとの意識が働く。が、護るのは内に閉じること。貯める、殖やすことが人をしだいに幸福から遠ざけてきたのでは?
(リンク先より引用)
~~~~~~~~~
図録にした時点で、「貯めて」「護ろう」としているように思うが、不問にする。
「残らないものに価値がある」
とまでは思わないが、
「価値があっても残らないものがある」
「残っているものの大部分は、(それ単体では)価値がない」
とは思う。
修正もよくない、のだろう。
でもどの生き方を選ぶかは、何をするために人生を過ごしているか、によって違うんじゃなかろうか。
ライブ的なリアルタイムの反応がすべてという生き方には、残るものは不要。
忘れ去られることが怖くもないのだろう。
次の瞬間、出会いなおせばよいのだから。
ただし、消費しつくせないものも何も残せない。
滅びること、なくすことに恐怖心はない。
一方で、蓄積していくことを大切にする生き方もある。
記録、比較、変化・成長が大事。
どちらが良いとはいえないが、
先例に注意して創造性を発揮するのは難しい。
先例に引きずられないようにするために、
自分の中で先例がパーツになりきるまで消化するか、
インプットしない、
という選択肢がある。
アートは消えてなくしてしまってもいいもの、
修正してはいけないもの、ばかりなのだろうか。
もしくは、すべてのものは、
「残らないものこそ価値がある」
のだろうか?
関連記事
-
手塚治虫の「火の鳥」
今もっている人生観、生死観は、もしかすると大学生時代に読んだ 手塚治虫氏の『火の鳥』の影響をかなり
-
「もうさわってはいけない」という一瞬
> これでもうさわってはいけない、というときってあるんですよね > 内藤礼 (折々のことば 選
-
生きている理由を自分に問うこと
> 生きている理由を……問わずにいられないのは、「問う自分」と「問われる自分」の歩調がどこか合ってな
-
自分の才能の発揮の仕方
Lifehackerで「ファインマン」で検索した結果http://www.lifehacker.jp
-
役の大きい・小さいはないけれど、人は大きく
> 「大きい役、小さい役はないが、大きな役者、小さな役者はあります。大きな役者になってください」
-
本「グランドファーザーとつり人」
グランドファーザーとつり人 (5次元文庫マージナル) by ジュニア,トム ブラウンhttp:/
-
信じるのだ、自分たちを
七夜物語(ななよものがたり)より 「これから先、とても困難な道だろう。けれど、信じるのだ、こどもたち
PREV :
「やっぱり生きていくのが面倒くさい」
NEXT :
立ち止まるのも、すぐに歩き出すのも、一休みするのもあり