愛について
公開日:
:
最終更新日:2014/08/10
et cetera
先日、「Core infinity通信」の最後に追伸のように書いた言葉がありました。
それを、こちらにも書いた方がよさそうです。
短いですけれど、どうぞ。
(から始めましたが、かなり追加しています。)
~~~~~~~~~~~~~~~~
【祖母へのメッセージ】
いまだに、
あなたからの
「お前には “愛” がない」
の言葉を思い出します。
その時も、今も、反論をできないけれど。
おそらく、反論したら、
「だから、お前には “愛” がない」
と言われるんだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
「愛」を「思考」や「丁寧さ」で測ったり、
「愛」を「思考」で「正しいもの」を探したりしていると、、『 “正しい” の罠』に陥っちゃうし、
それは「幸せ」にはつながらないよ。
「愛がある行動」は、理屈から考えてそれなりのことはできなくもないけれど、
「愛」は理屈じゃないし、
「理屈じゃない愛」から湧き出してきた創造力あふれる思いや行動の中にキラッと見えるのが、『愛』なんだよ。
そんな『愛』を与えるのが、『幸せ』なんだよ。
人から愛をどれほどたくさん受取っても、『幸せ』を感じても、『幸せ』ではない。
『愛』を与えた人の特権なんだ。
ちなみに、『愛』を『物』に替えて差し出したとたんに、『愛』じゃなくなるんだよ。
そうだ。
「受け取る愛」っていうものもあったね。
力を抜いて身体を投げ出して、他人の手に身の安全をゆだねられるのも、「受け取る愛」。
そんな無垢の目で見ないと、本当の「愛」は見えないかもしれない。
身を委ねるのは愛だし、支えるのも愛。
でも、依存するのは愛じゃない。
もちろん、依存させるのも愛じゃない。
可能性を100%信じて、荒海に投げ出すのも愛。
それを信じられないとしたら、「愛」の目で見ていないから見えないんだよ。
もし、ある特定の人から「愛」を欲しいと思ったら、「自分ができること」をするのではなくて、「相手が欲しいもの」を与えることだよ。
「相手が欲しいもの」は、自分の価値観や常識、願いたちすべてを脇に置くことでしか、わからないよ。
「条件付きの愛」は、「愛」じゃないんだ。
そして、「愛」を欲しい、と思うことは、「愛」ではないんだ。残念ながら。
自分ができることを最大限してやることが愛ではなく、
自分ができないと思っていることをやることは、愛かもしれない。
与えることは愛の場合があるし、
与えないことが愛の場合の方が多い。
それは、「我慢させる」ということではない。
「代わりのもので目先を変えさせる」ということでもない。
「本当に必要としていることは何か?」それを見つけさせること、
そして、
自分が欲しいものを自分で作り出させる、
それを100%信頼して見守り続けることが、「愛」なんだ。
今気づいたけれど、「義理を返す」「恩に報いる」が「愛」だと思っていたのかもしれないね。
それは、かなり形式に引っ張られた、形で判断されるもので、決して「愛」ではない。
少なくとも、「形式を守る」ことが最善のことだとは思っていないだけなんだ。「愛」の有無とは違うんだよ。
※しばらくは、書き足していきそうです。
ご興味を持たれた方は、時に覗きに来てください。
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